京都新聞に町つくり推進会松原さん登場!

2011年1月4日付け京都新聞丹波版に篠町町つくり推進会事務局長の松原榮一さんが登場しましたので、記事を紹介します。

以下記事より引用

「事実を正確に伝えていきたい」。1951(昭和26)年7月11日に亀岡市で発生した「平和池水害」。被災者の証言や関連資料を集め、次の世代へ語り継ぐことが、「使命」だと思っている。
平和池水害では114人が亡くなり、篠町柏原地区は75人の犠牲者を出した。松原さんも弟2人を亡くした。
当時、小学4年生。亀岡小から自宅へ向かうと、濁流の年谷川が視界に飛びこんできた。目を疑った。家がない。庭木もない。「景色が一変していた」。知っている人から「(家の人は)流されはったよ」と聞いた。
両親には安詳小で再会できたが、弟たちは帰らぬ人となった。その日の朝、小学l年の上の弟は、雷を怖がって学校を休んだ。「強引に連れていけば」。今も悔いが残る。
亀岡高卒業後、公務員となり農業土木の仕事についた。国家事業の平和池ダムが決壊して甚大な被害をもたらした。平和池ダムはどのような計画、設計で事業がなされたのか。常に自らに問いかけながら仕事をしてきた。弟をなくし、「役に立たなければならない、と潜在的に意識したのでしょう」という。
もう一つ、やるべきことがあった。退職するころ、JR馬堀駅で地元の幼なじみと顔を合わすたびに、「水害を記録せなあかんね」と言葉を交わした。
水害から50年を機に同世代の仲間と、証言と資料を集め始めた。当日の様子はそれまで余り語られなかった。「肉親を死なせた負い目もある」。語りたくない気持ちも分かる。しかし、伝えなければいけない。水害を風化させてはいけない。
「証言をつなぐと事実が見えてきた」という。まず年谷川が氾濫して、その後に平和池ダムが決壊し鉄砲水が押し寄せた。
平和池ダムがなくても水害は起こっていた。「真実を認識して学ぶことが大切なのです」か当時の写真や復旧の記録、平和池ダムの事業計画書なども手に入れた。仲間と集めた証言と資料は昨年、本「柏原75人の鎮魂歌」として刊行された。
平和池水害から何を学ぶのか。教訓は柏原地区だけのものではない川はかの地域の自治会や学校からも講演を頼まれる。
松原さんは今も、雨が降れば年谷川を見に行って水位を確認する。「身近に危険があるという意識を常に持っています」。
自身が得た教訓の一つだ。
今年は平和池水軍から丸60年を迎える。地域の避難困難者のリストアップ、水害の語り部の養成、柏原公民館に設けた水害資料室の展示物の更新…。「まだまだ、やるべきことがたくさんあります」。節目の年、決意を新たにしている。

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京都府亀岡市篠町自治会です。
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